日本酒のルーツ
日本での酒造りの歴史は古く、縄文時代にはすでにヤマブドウやキイチゴなどを使った果実酒のようなものが造られていたとされています。
日本酒の原料は米ですが、米から造った酒がいつ頃から存在したのかについてはっきりとした年代は実は分かっていません。
米を原料としたお酒が実在したことを示す記録が登場するのは、8世紀初めの奈良時代に遡ります。713年に編纂された「大隅国風土記」にある口噛み酒が日本酒のルーツとされ、米や雑穀、芋などのでんぷんを含んだ植物を口で噛み、唾液に含まれる酵素と野生酵母によってアルコール発酵し、酒になるというものでした。
食べることにも苦労する当時においては「酒」はまだ大衆的なものではなく、朝廷に作られた「酒部」と呼ばれる機関が、朝廷のために酒を造っていました。その後平安時代になると、寺院(僧侶)がそれぞれの荘園から得た米で酒造りをおこなう「僧坊酒」が誕生します。
一般の人々が酒を手に入れられるようになったのは、鎌倉時代以降のこと。室町時代から戦国・安土時代にかけて、寺院の僧侶たちが造る僧坊酒は「品質の良い酒」として人気を博すようになります。
なかでも菩提山正暦寺で作られた「菩提泉」はそれまでのにごり酒とは違い、清く澄んでおり、現在の清酒のもとになったとされています。
僧坊酒は今の酒よりもかなり甘く、濃厚な香りを持った酒でした。当時は酒造りの最中に腐らないように水を少なくしていたことで、発酵が進み切らず糖が残りやすかったためにどうしても甘くなってしまったからとされています。
日本酒造りの確立

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江戸時代には、現代の酒造りとほぼ変わらない酒造りの手法が確立されます。
まず、「寒造り」という最も酒造りに適している冬のみに酒造りを行う手法が始まり、酒の腐造を防ぐことが可能になりました。
他にも、醪(もろみ)に焼酎を入れてアルコール度数を高くすることで酒を腐りにくくする「柱焼酎」といった手法や、醪を数回に分けて仕込む「段仕込み」、酵素の働きを止め、日本酒の発酵を留める「火入れ」など様々な手法がこの時代に始まりました。
※これらの手法の詳細については、以降の章で詳しく学習することにします。
こうして酒造りの手法が確立されるとともに、原料である米をよく知る農民の中から酒造りのスぺシャリストが登場します。造りの指示をだすリーダーである杜氏(とうじ)を中心として、蔵人と呼ばれ酒造労働者たちにより酒造りの分業化が進んだことで、酒の量産化が進みました。
杜氏は流派として受け継がれており、特に「南部(岩手)」「越後(新潟)」「丹波(兵庫)」は3大杜氏といわれ、日本酒の銘醸地となっています。
物資不足・酒税強化を越えて、大量生産の時代へ
明治時代に入り酒造りの自由化が進んだことで、多くの酒蔵の誕生や現在も続くメーカーの創業が相次ぎますが、同時に富国強兵による「増税」の影響で、一時は増えたはずの酒蔵の数は江戸時代よりも減ってしまいます。
江戸時代に約2万7千軒あった酒蔵は、1907年には8千件にまで減少したといわれています。
昭和時代に入ると戦争の影響が大きくなり、日本酒業界はさらに増税や物資不足に苦しめられます。このような背景の中で、醪に醸造アルコールと水を加えて、糖類や酸味料などで味を整えた「三増酒」など少ない原料で多くの日本酒を造る手法が生まれました。効率よく大量に作れる三増酒は戦後も造られ続け、高度成長期とともに訪れる日本酒受容の高まりとともに、日本酒は大量生産の時代を迎えます。
当時は蔵ごとに生産量の制限があったため、酒造メーカー間で原酒を供給し合い、供給量を調整する「桶売り・桶買い」というものが一般化しました。
昭和30年代には、若者向けにいつでも手軽に楽しめることを目的に開発されたカップ酒や、欧米で牛乳が紙パックで販売されていることに着目して作られたパック酒も登場します。好景気の中、日本酒の景気はさらに拡大されていきました。